ジブリ映画『君たちはどう生きるか』ネタバレ感想

スタジオジブリ宮﨑駿監督の10年ぶりの新作『君たちはどう生きるか』が2023年7月14日より劇場公開されました。

さっそく2日目に観てきたので、私なりの感想と考察を書いていきます。

なお、この記事は本編のネタバレを含むので、まだ映画を観ていない人は観賞後にご覧ください。

この記事の内容はあくまでも私個人の感想であり、変な先入観を持つと作品の可能性を狭めてしまう恐れがあります。

また、この記事は1度観ただけで書いていますので、記憶が曖昧な部分もあります。
何か勘違いしている点もあるかもしれませんのでご了承ください。

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目次

全体の感想

まず、映画『君たちはどう生きるか』を観終わった直後の率直な感想は「意味不明なストーリーで余韻ばかりが残る映画」……というもの。

余韻というのは「あれはなんだったんだろう?」という「?」のこと。

劇場を後にする他の観客たちも多くの「???」を抱えながら席を立っていたように見えました。

もしかしたらそのこと自体、現実世界は複雑怪奇で答えなどないにも関わらず、安易なファンタジーで単純に世界を都合よく解釈しようとする私たちへの戒めのメッセージなのかもしれません。

「答えを求めるな。混沌の中で君たち自ら新たな何かを作り出せ」という宮崎駿のメッセージかもしれません。

とにかく、どことなく文学小説のような難解さを持っていて観るひとを選ぶ映画です。

「ラピュタ」や「トトロ」を求める人には向かない映画かもしれませんが、「もののけ姫」や「ハウルの動く城」が好きな人ならきっと楽しめるでしょう。

私も映画鑑賞後、内容を何度も思い返しながら考察を深めていくことでやっと色々なものが見えてきました。

今後さらに更新していく予定ですが、現時点で書けるところだけ以下に書いていきます。

眞人(まひと)

当初、主人公の眞人(まひと)は一見礼儀正しくキレイな顔をした少年だが、実は心を閉ざしていて何を考えているのかよくわからない少年。

心の中に悪意を隠し持っています。

嘘をでっち上げて被害者になることで他者を攻撃しようとしたり、なぜか目の前に現れた気に入らない存在?(アオサギ)を傷つけようします。

前半の眞人はそんな内面に鬱屈を抱え込んでいるようなタイプの人物。

そんな彼がこの物語の体験を通して何かを理解し、最後に自分の意思で結論を出します。

それが宮崎駿が次の世代の若者たちに送る「君たちはどう生きるか?」の問いでありアンサーなのだと思います。

アオサギ

アオサギは、現実世界と異世界との間を行き来する鳥。
美しい姿の下に汚いオヤジが隠れている。

これは宮崎駿自身を投影していると考えられます。

自分は聖人や天才ではなく、本当の姿はただの汚いオヤジだということでしょうか?

まぁ人間ですから誰しも清濁併せ持っているのが普通です。

それに、深い闇があるからこそ人々を魅了するような美しい何かを生み出せるものです。

アオサギは異世界への案内人であり、「アオサギは嘘つきだ?でもこれは本当だ?」などというセリフがあります。

これは真理でありファンタジーでもあるこれまでの宮崎作品のことを指しているのかもしれません。

これまでの宮崎駿の作品はどれも、本当にありそうな嘘の話(ファンタジー)。
私たちは宮崎駿のサギにまんまと引っかけられてきたとも言えなくはありません。

また、アオサギの話す言葉は大叔父の血縁者でないと聞こえないというのは、この作品を理解できるのは、自分と同じ系譜を持つ(クリエイターのような感覚?心の傷から何かを生み出そうとする人?)人だけだということなのでしょう。

異世界

物語の後半に登場する異世界は宮崎駿など過去の偉大なクリエイターたちが創り上げたファンタジーの世界の比喩だと思われます。

また、人間の心の深層心理にある潜在意識の象徴のような場所、もしくは魂の根元のような場所でもありそうです。

そして、死者の世界であり、新しい生命が生まれる場所でもあります。

そこには迷い込んだら抜け出せない迷宮があり、危険だからと言って現実世界の住民たちによって入り口が塞がれている。

眞人は宮崎駿自身であるアオサギによって異世界に導かれる。

大叔父

異世界の中の城塞のような場所の内部にある階段を登っていくと虚無的な空間が広がり、その奥には天国のような美しい庭園がある。

そこに住んでいるのが大叔父。

これも宮崎駿自身の投影だと思われますが、個人的にはなんとなく手塚治虫やウォルト・ディズニーなどアニメ界の先人たちも投影されているようにも感じました。

そこで、大叔父は積み木のような石を13個を積み上げることで世界のバランスを保っている。

13という数字はこれまでの宮崎駿監督作品と同数なのだとか。

眞人は大叔父の積み上げてきた積み木を利用して世界を引き継ぐこともできると提案されるが、「それは墓石と同じ石で作られていて木ではない、悪意がある」と言って断る。

いずれにせよ最終的に、眞人は自分の意思で「どう生きるか?」選択をします。

「墓石と同じ石」というのは、それはもはや生きていないものであり、それを積み上げても生きた世界は作れないということなのでしょう。
そして、眞人は少し形は悪くても木のような生きたものを積み上げていきたいということなのだと思います。

眞人が自分自身でつけた頭の傷について、現実世界では父親が「髪の毛を伸ばせば隠せる」と言っていたが、異世界ではいつの間にか絆創膏は剥がれ隠すことがなくなっている。

たとえ傷を負っていたとしても、生きていく上ではそんなこと気にしてる場合じゃないということ?

そして、若き日のおばあさん(キリコ)も同じ傷を持っていた。

誰もが傷の一つや二つ持っている。
いやむしろ、傷を持った者しか異世界に足を踏み入れることができないのではないだろうか。

その心の傷が異世界への扉を開いた。

我を学ものは死する

眞人は、ペリカンの群れに押されて「我を学ものは死する」と書いてある門を開けてしまう。

お墓のようだが誰の墓なんだろう?

眞人は中に入らず若きキリコに救われる。

そして影のように存在感のない人たちがたたずむ村に案内される。
そこで殺生はしないという住民たちに代わって、釣ってきた大きな魚をキリコと一緒に血塗れになりながらさばく。

(そのハラワタが次の命へとつながっていく)

ここで眞人は「生きるとはそういうことだ」ということを身をもって学んでいるのではないでしょうか。

つまり、キレイ事だけで生きてはいけないということ。

ペリカン

ペリカンはジブリで働く人を含めたクリエイターたちの比喩か?

アオサギは、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類される鳥類だそう。
つまり、ペリカンは宮崎駿の投影であるアオサギの仲間ということになります。

ペリカンは無理やり異世界に連れてこられて食っていくために必死に働いているというようなことを言っていたし、もう飛べないと言っていた老いたペリカンを埋葬してやるシーンは宮崎駿なりの昔の仲間たちへのお別れの描写だったのかもしれません。

いや、もしかしたら老いたペリカンも宮崎駿自身で、自分自身を埋葬するシーンだったのかもしれません。

過去の宮崎作品を思い起こさせる数々のシーン

この作品中には、過去の宮崎作品を思い起こさせるシーンが数多く登場します。

たぶん劇場公開された作品は全て登場してるんじゃないでしょうか。
それらを見つけた瞬間ちょっと嬉しくなります。

過去の作品の断片を数多く登場させたのは「これが最後」というお別れのメッセージも込められているように感じました。

まとめ

まだまだ深掘りしたいところがたくさんあり、近々もう一度観て書き直す予定ですが、まず一旦ここまで書いて公開することにしました。

これらはあくまで私の個人的感想であり事実ではありません。
解釈の仕方は人それぞれ自由で良いのです。

自分なりの解釈をしながら観ることが、抽象的な表現の多い『君たちはどう生きるか』を楽しむ方法だと思います。


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