偽善と偽善者〜何が悪い?
最近は、何か親切なことをした人に対して「偽善者だ!!」と批判する声が上がることがあります。
寄付をしたり、友達をかばったり、ボランティア活動をしたら、それで偽善者だと言われることもあるわけです。
ここでは、そんな偽善や偽善者ということについて書いてみました。
やらない善よりやる偽善
偽善に関しては、仮にその行為が偽善であったとしても、誰かの役に立つのならそれで良いのではないかという意見があります。 私もそれに賛成です。
やらない善より、やる偽善 ── というわけです。
まぁそもそも、それが”偽善”か”真善”かなんてあまり厳密に考える必要などないのではないでしょうか。
「善意とはこうあるべきだ!!」などと大げさに考えないで、自分が何か人の役に立ちそうなことを思いついたら、カジュアルな感覚でやってみればそれで良いんじゃないでしょうか。
それで自分も他人もハッピーになるなら、考えすぎずにやれば良いだけです。
それを見ている人も、あまり他人の行動に干渉せず、放っておけば良いような気がします。
人間の中には善も悪も混在していますし、聖人君主でなければ善を行ってはいけないなんていうこともありません。
たとえ瞬間的な善であって、それが善の行為であれば肯定されるべきです。
それに、社会で生きていく上では多少の偽善は必要です。
外出するときに素っ裸で出かける人はいません。
誰だって洋服ぐらいは着ていきます。
それと同じようなものです。
押し付けられる善
とはいえ、偽善が害をなすこともあります。
自分が信じる善や正義を絶対的なものとして、他人に押し付けてくるような場合です。
直接押し付けられなくても、テレビやSNSを通してそうしたメッセージを受け取ってしまうこともあります。
そうなると、その行為に潜む偽善を暴きたくなる気持ちが湧いてきてしまうのもわからなくはありません。
善意の行いをする人の中には、自分がイキイキしたいからとか、他人に必要とされることで自分の存在価値を確かめたいといった動機が強い人もいます。
ついついそれを糾弾したくなってしまうのです。
しかし、それでもやっぱり他人の行いにケチをつけるのは控えるべきでしょう。
誰に対しても完璧な行動を求めることはできません。
自分だって完璧なはずはありませんから。
もし許せなければ、距離を取るのが得策だと思います。
何も対決する必要はないでしょう。
そして、「偽善者」という言葉は、かなりキツイ言葉ですから、あまり容易に使うべき言葉ではないと感じます。
他人の善意につけ込んで寄付などを募っておきながら、それで私腹を肥やしていたなんていう場合は、偽善者と呼ばれても然るべきだと感じますが、普通の人が自分なりの善の行動をしている時に適用すべき言葉ではない気がします。
それこそ、自分が信じる善や正義を絶対的なものとして他人に押し付けるような行為になってしまいます……。
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